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ディスレキシアのOLブログなので、聞いたり見たりした情報多め

【東京江戸散歩】四ツ谷~信濃町~明治神宮外苑~乃木坂

本日も歩き旅応援舎の歩くツアーに参加をして

四ツ谷から出発し、信濃町、そして明治神宮外苑、乃木坂まで歩いてきました!

君の名は。」の聖地から、創価学会の聖地、そして乃木坂48の聖地と、見るところがたくさんのツアーです。

所要時間は3時間、約13000歩でした!

ではスタートしましょう。

 

四ツ谷三丁目駅

四ツ谷の名前の由来はいろいろあるそうですが、四つの谷があったということが一番有力そうです。

 

甲州街道

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日本橋から内堀沿いに江戸城の南側をまわり、半蔵門の前から西へと向かう江戸の五街道の一つです。

甲州街道という名前ですが、甲州で終わりではなく、交付を経て下諏訪まで続いています。このエリアは寺だらけで、この街道を境に北町寺と南町寺に分かれていたそうです。

丸正の大きな看板が見えますね。新宿区を歩くと丸正の本部や石碑も見つけることができます。新宿区でのマルショウの力の強さが良く分かります。

 

丸正本社

〒160-0018 東京都新宿区須賀町4

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ありました、こちらが丸正の本社のようです。

 

東福院坂

〒160-0011 東京都新宿区若葉2丁目7−1

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坂の途中に東福寺があることが名前の由来です。東福寺は豆腐地蔵の伝説があり。

※豆腐地蔵の伝説:金儲けをしようとした豆腐屋さんが地蔵に自分の豆腐包丁が刺さっていることを発見し、豆腐屋の旦那が反省し金儲けのため悪い豆を使ったり豆腐を小さくして売ることをやめたら繁盛したという話。

 

須賀神社参道の階段

〒160-0018 東京都新宿区須賀町 Unnamed Road

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ここから須賀神社に向かって登る急な階段が神社の参道になっています。あの、アニメ映画「君の名は。」のラストシーンに登場した階段でもあります。

君の名は。は、新宿から四谷、信濃町にかけてみたことのある景色がかなり出てきますが、この須賀神社の参道がやはり何より印象的ですよね。

 

鮫ヶ橋

鮫ヶ橋の名前の由来はいろいろありますが、江戸時代に存在した鮫ヶ橋まで、鮫が登ってきたというものが一番好きです。

ちなみに江戸時代は鮫ヶ橋は三大スラムとして有名だったそうで、イメージが悪いので若葉という爽やかな名前に変えていったそう。

今や四谷のエリアは高級住宅街のイメージなので、昔はスラムだったのか~という感じです。特にこれと言って「旧スラムっぽさ」はあまり感じませんでした。大昔の話なので当たり前ですが。

 

戒行寺坂

〒160-0018 東京都新宿区須賀町9−40

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坂の上が寺町で、一番手前にある戒行寺が坂の名前の由来です。戒行寺は「鬼平」として知られる長谷川平蔵菩提寺ですが、墓は現存していません。

 

鉄砲坂

〒160-0011 東京都新宿区若葉1丁目21−11

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この坂の上に住んでいた「御持組(おもちぐみというかわいい名前)」とは、将軍直轄軍のうち弓矢や鉄砲を武器に戦っていた部隊のことです。この坂に御持組の鉄砲の練習場があったことが名前の由来とされているそう。

ちなみにこの坂も君の名は。に数秒出ていたそうです。

 

紀伊和歌山藩上屋敷

〒102-0094 東京都千代田区紀尾井町4−26

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徳川御三家の一つである和歌山藩上屋敷は、江戸時代当初は現在の吹上御所内にありましたが、火災によって紀尾井町に移され、更に1823年の火事によってそれまでの中屋敷上屋敷となりました。その跡地は明治初期の仮御所などを経て、現在の迎賓館と赤坂御用地となったそうです。

 

せきどめ神

〒160-0012 東京都新宿区南元町9−9

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桜川には鮫が橋付近に堰が設けられていたため、「堰止める」から堰の畔にあった稲荷神社が「せきどめ神」と呼ばれるようになったそうです。もともとはみなもと町公園の東側にありましたが、道路拡張のため昭和46年に現在地に移転をしました。

 

林光寺

〒160-0012 東京都新宿区南元町15−3

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兵庫県生野銀山で開創し、東京の赤坂をへてこの地に移転してきた浄土真宗寺院です。新宿区登録有形文化財を多数所蔵しています。

 

一行院

〒160-0012 東京都新宿区南元町19−2

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とてもおしゃれな寺院です。江戸時代初期のころ創建の浄土寺院だそうです。近くに屋敷のあった永井家の家臣が主君を弔うために建てられた庵が始まりと言われています。

板碑や墓地の出土品が新宿区の登録有形文化財になっています。

 

信濃町駅

〒160-0016 東京都新宿区信濃町34

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1894年に開業した駅です。

この付近には徳川譜代の大名である永井家の本家・分家の屋敷がありました。そのうち本家は信濃守を名乗ることが多かったたため、駅名の由来となっています。

今では創価学会の聖地でもあり、時期によっては町中に創価学会の三色旗が掲げられていて「聖地」感がさらに出てきます。

 

滝沢馬琴旧居跡

〒160-0013 東京都新宿区霞ヶ丘町14

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残念ながら私はディスレキシアなので、滝沢馬琴の本は一切読んだことがないのですが、こちらが、滝沢馬琴が晩年12年間過ごした家の跡だそうです。今は日高屋になっています。日高屋かぁ。

跡取り息子の死の翌年、馬琴は御家人株を買い、孫を御家人の養子としてこの地にあった御家人の組屋敷に転居しました。馬琴は1848にこの地でお亡くなりになっています。

 

明治神宮外苑

〒160-0013 東京都新宿区霞ヶ丘町1−1

幕府の火薬庫だったところと、武家屋敷街が1886年に青山練兵所になりました。ここでは明治天皇の大葬儀が行われ、そのあと明治天皇の遺徳を後世に伝えることを目的に明治神宮外苑が建設され、1926年に完成しました。

外苑内は聖徳記念絵画館を中心に、国立行儀上、明治神宮球場などがあり、茶道・書道教室なども開かれるスポーツと文化の拠点となっています。

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良い時期に行くと本当に見事な銀杏並木を見ることができます。146本の銀杏が4列に植えられていて、神宮外苑のシンボルとなっているのです。

 

聖徳記念絵画館

〒160-0013 東京都新宿区霞ヶ丘町1−1

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明治天皇の御聖徳を後世に伝えるために、明治天皇の出来事と明治天皇の実績を80枚の壁画にして展示しています。

1926年に完成した鉄筋コンクリート製に花崗岩を外装に貼った建物は、日本初の美術館建築であり、国の重要文化財に指定されています。

 

御観兵榎

〒107-0061 東京都港区北青山1丁目7

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この地が青山練兵場であったころ、明治天皇の閲兵が何度も行われていますが、そのときには大榎の西に玉座が設けられていたことから、「御観兵榎」と呼ばれることとなりました。この榎は1995年の台風で倒れ、現在の榎は二代目です。

御観兵榎と石に刻まれている字は東郷平八郎の筆跡だそうです。鳥の糞が気になる・・。

 

玉窓寺

〒107-0062 東京都港区南青山2丁目7−8

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徳川家康の側近で青山の地名の由来ともなった青山忠成の息女が死んだとき、赤坂の下屋敷内に位碑の安置所を設置したのが玉窓寺の始まりとされています。

1879年に玉窓寺の場所が赤坂御所になることとなり、現在地に移転してきたそうです。

 

都立青山霊園

〒107-0062 東京都港区南青山2丁目33

1872年に政府が神式墓を推奨するために設けられた5か所の公営墓地の一つです。

10人の総理大臣経験者をはじめとして、約27万平方メートルの敷地に10万ものひとが葬られています。

総理大臣経験者:

黒田清隆松方正義山本権兵衛加藤友三郎、加藤孝明、浜口雄幸犬養毅小磯国昭吉田茂池田勇人

 

その他

乃木希典尾崎紅葉大久保利通忠犬ハチ公志賀直哉森有礼後藤新平後藤象二郎北里柴三郎などの方のお墓を見ることができます。こちらがその一部です。

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星条旗新聞

〒106-0032 東京都港区六本木7丁目23

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アメリカ軍向けの新聞を発行している星条旗新聞の日本支部です。江戸時代に宇和島藩上屋敷だったところは明治時代に陸軍歩兵第三連隊となり、第二次世界大戦によって米軍に接収されました。現在でも星条旗新聞のある赤坂プレスセンターのみはアメリカから返還されておらず、東京23区内唯一の米軍基地となっています。

ヘリコプターが良く飛んできますが、めちゃくちゃ近くでヘリコプターを見ることができます。このエリアに住んでいる人は騒音が大変そうです。

 

乃木坂駅

昭和47年に開業した東京メトロ千代田線の駅です。東側の出口を出たところに乃木希典の旧宅があり、1912年に赤坂区議会の議決によりその駅が開業した時に坂道の名を駅名としました。

 

【東京江戸散歩】水天宮前~人形町~浅草橋~秋葉原~新御茶ノ水

今日も歩き旅応援舎の散歩で東京ぶらぶらしてきました!!今回のエリアは東京大空襲で被害が少なかったエリアで、古い建物が多く、なんだかタイムスリップした気持ちになってしまいました。

今回のコースは水天宮前~(すべて徒歩の3時間コース)人形町~浅草橋~秋葉原~新御茶ノ水です!

では見てみましょう。

 

水天宮

〒103-0014 東京都中央区日本橋蛎殻町2丁目4−1

東京メトロ半蔵門線5番出口を出てすぐです。

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ここはもともと芝の久留米藩有馬家の屋敷内にあった神社が有馬家の移転に伴って1872年に現在の場所に移転してきたそうです。

天御中主大神(古事記にでてくるイザナギイザナミよりもずっと前の神様で一番最初の神様)を祭神としています。初めて現れた神様ということで、安産のご利益で知られているそう。

ここの神職久留米藩有馬家の末裔だそうで、現在の神職のおじいさんが中央競馬会の理事長も務めており、のちの「有馬記念」に名を残すことになってのだとか。

安産の神様でもありながら、有馬記念の神様でもありそうですね~!

 

松島神社

〒103-0013 東京都中央区日本橋人形町2丁目15−2

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まだ付近が海だったころ、ここには松島があり、この松島に祀られていた稲荷神社が起源です。現在では14柱(神様は「人」ではなく「柱」でカウントするんですよ~)もの神様を祀っています。

古地図を見てみるとわかりますが、松島町(松島があった部分)は町人が住んでいて、周りの海を埋め立てたところは武家屋敷でした。

 

人形町

〒103-0013 東京都中央区

人形町の名前の由来はいろいろあります。

①江戸時代にこのエリアに芝居小屋街があったころ、浄瑠璃人形を作る職人が住んでいた。

②お土産として役者の人形を売っていた。

など。

また、このエリアは第二次世界大戦中の被害が少なく、関東大震災後の復興期に建てられた建物が今も残っているのわかります。

昔は人形屋さんがたくさんあったそうですが、今でも結構たくさんあるな!という印象を受けました。写真でも見えるかしら?人形屋さんがまだまだ残ってます。

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甘酒横丁

〒103-0013 東京都中央区日本橋人形町2丁目4

人形町通りとの交差点の角に尾張屋という甘酒屋があったことが名前の由来です。その名にちなんで甘酒を売る店も多いようです。人形焼きやたい焼き屋さんなどほっこるするようなお店が並びますが、今回は通りすぎただけなので、写真なし!(悲)

ここで休憩したかった!!

 

明治座

〒103-0007 東京都中央区日本橋浜町2丁目31−1

明治初期に両国広小路に立ち上がった、芝居小屋が始まりです。久松町に移転した後、関東大震災焼失を機に現在地に移転したそうです。

○○座というと、歌舞伎を思い浮かべますが、ここでは歌舞伎だけではなく様々な芝居や歌謡ショーなどもやっているそうです。

 

 

賀茂真淵縣居の跡

〒103-0005 東京都中央区日本橋久松町9−11

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賀茂真淵(1697-1769)は江戸中期の国学者です。江戸で田安徳川家に仕えていましたが、隠居後はこの縣居の跡のエリアに住んでいた坪井家の屋敷を間借りし住んでいたそうです。

この間借りして住んでいた場所はこの説明版が設置されているとこよりも100メートル近く離れているところです。

明治初期に国学原理主義のように国学が利用されてしまいましたが、江戸から国学は大切な学問として学ばれていましたね。

賀茂真淵は、古事記伝などを書いた本居宣長の先生。そして平田篤胤は自称本居宣長の教え子。平田篤胤あたりから、国学を使って尊王攘夷を唱える運動が始まってきました。

この賀茂真淵跡は特に何かが残っているわけではなく、この看板があるだけです。

 

矢ノ倉の碑

〒103-0004 東京都中央区日本橋1丁目10

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江戸時代前期に幕府の米倉があり、このエリアは矢ノ倉と呼ばれていました。米倉は1698年に火事で築地に移転しましたが昭和まで矢ノ倉町とこのエリアは呼ばれ続けていました。昭和から矢ノ倉町の名前はなくなったので、それを惜しんでこの碑が建てられたそうです。よっぽどこの地名に愛着があったのですね...

ちなみにこちらも、特に何かが残っているわけではなく、この石碑があるだけです。

 

薬研堀不動院

〒103-0004 東京都中央区日本橋2丁目6−8

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兵火に遭って、根来から逃げてきた不動尊像を祀ったのが始まりと伝わっています。1842年に隅田川の対岸に移転し、明治維新後に順天堂大学の創設者である医師の屋敷跡に移転したのが現在の場所です。

不動院の横には順天堂大学石碑も建っています。

ここのエリアはお医者さんがまとまって住んでいたそうです。江戸時代に体を温めるために医者は唐辛子を使っており、ここのエリアが七味唐辛子発祥の地でもあるそうです。すぐ近くに素敵な唐辛子のお店がありました。大木唐からし店というお店です。

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両国橋

〒103-0004 東京都中央区日本橋2丁目

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江戸で一番大きな火事であった、明暦の大火(1657年)の教訓から災害時に隅田川を渡れるようにするためかけられた橋です。この橋に架けられている〇は、地球儀だという人や花火だという人など諸説あるそうですが、花火の方がロマンチックなので花火を表していることを信じたいです。

 

柳橋

〒111-0052 東京都台東区

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今日1番テンションがあがった柳橋!船着き場が風情があってすごく素敵でした。

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この佃煮屋さんのマスターも爽やかで心地いい!今度佃煮を買いに行きます。

この橋はもともと1698年に神田川と墨田川の合流点に架けられた橋だそうです。現在の橋は関東大震災の復興事業として1929年に架けられたものが残っています。

橋の北側は江戸中期から花街でしたが、平成11年に花街としての歴史を終えたそうです。

当時のお金持ちは、ここで芸者と遊びながら食事をした後、吉原に船で行き、遊女と遊んで家に帰ってくるという遊びをしていたんだとか・・・いやね!

そして聞いてみると、柳橋の花街は江戸時代とても人気の花街だったそうで、お客さんが遊び方を知らないと、お客さんは「帰ってください」と言われたそうです。怖い!

なので、通が通う花街ということで有名でした。

江戸後期から明治にかけて、薩摩長州、土佐、肥前の田舎の元武士が権力を握り始めると、田舎の元武士たちは東京での芸者との遊び方がわからないため、柳橋エリアの芸者には好かれなかったそう。

そこで代わりに栄えたのが、新橋の芸者です。田舎の武士あがりの権力者と、田舎から出てきた芸者が新橋や銀座のエリアで遊んだそうです。(新橋は明治初期一番最初に鉄道ができた街なので、新橋エリアの芸者は柳橋の芸者に比べて、田舎から出てきた芸者が多かったそうです。)

今でも新橋の芸者は東京で一番多いようで、COREDO室町などにも出張で来ているようです。素敵!伝統継承のためでしょうか、ありがたいですね。ぜひいつか行ってみたいと思います。

 

篠塚稲荷神社

〒111-0052 東京都台東区柳橋1丁目5−1

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花街の鎮守だった神社です。玉垣に料亭などの三業(芸者・食事・場所貸し)の名前が刻まれています。また、この近所に住んでいた花柳竜太郎や横綱朝汐太郎の名前もありました。

 

石塚稲荷神社

〒111-0052 東京都台東区柳橋1丁目1−15

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篠塚稲荷神社と並んで、花街の鎮守だった神社です。ここの玉垣にも三業の名前や、芸者さんの名前が刻まれていました。

 

最後の料亭跡

〒111-0052 東京都台東区柳橋1丁目28−4

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がーん!跡形もない...

平成11年に最後まで営業していた料亭いな垣が閉店し、柳橋の花街は終焉を迎えました。今はこのエリアには芸者はいません。このいな垣の跡地はビルになっています。残念!料亭残しておいてほしかった!

 

須賀神社

〒111-0053 東京都台東区浅草橋2丁目29−16

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 推古天皇(601年)の創建とも伝えられていますが、平安時代中期の創建とする説もあります。当初は天王社と称していましたが、明治初期の神仏分離の折にスサノオノミコトが神様となり、名前も須賀神社となりました。

須賀神社の名前の由来は、スサノオノミコトが、ヤマタノオロチ退治後、いけにえになっていた女性と結婚、新しい地に行った際に「すがすがしいなあ」と言ったことから、須賀神社と名付けられ、スサノオノミコト祀られているそうです。

日本人はいつも駄洒落を歴史にしてしまって面白いですね。

 

東京都下水道局泉町ポンプ所

〒101-0024 東京都千代田区神田和泉町1−3−12

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やはり古いレンガ造りにあこがれる!!

レンガに気を取られすぎて全体のポンプ所を撮るのを忘れました。

これは1922年に建設されたポンプ所です。関東大震災でも倒壊せず、ここに流れ込んでいた下水を利用して消火活動も行われました。建設当時の可能性があるレンガが一部残っています。※ただし、建設当初のものかまだ分からないため「調査中です」の貼り紙が貼ってあります。

 

秋葉原

やっと秋葉原に来ました!秋葉原の名前の由来ですが、1869年の大火の跡に設けられた火除地に鎮火神社が建てられましたが、これを人々が「秋葉神社」と勘違いし、このエリアを「秋葉っ原」と呼んだことが由来とされています。

勘違いしていなかったら、このエリアは秋葉原じゃなくて鎮火原(ちんかばら)だったかもしれないのですか・・。

秋葉原駅建設によって、神社は台東区松ケ谷に移転し、結局みんなが秋葉神社というものですから、鎮火神社から秋葉神社に名前を変えてしまったそうです。本物が折れた・・。

 

講武稲荷神社

〒101-0021 東京都千代田区外神田1丁目9

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幕末に水道橋駅の南側に設立された講武所の資金を調達するために、幕府によって払い下げが行われた土地が、現在この神社がある、講武所屋敷でした。土地を落札した大貫伝兵衛が、落札させてくれてありがとう、という思いで建立されたのがこの神社です。

一時期周囲は花街となり、その芸者衆は講武所芸者と呼ばれていたそうです。なんだか強そうですね。

 

昌平橋

〒101-0021 東京都千代田区

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ちょっと、あまりにも素敵な橋だったので、載せさせて!

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この奥のレンガの中のお店が素敵じゃないですか?!テラス席がある!夏はおそらく神田川が臭いのでテラスは嫌ですが、夏以外は素敵!そして、「東京は臭かった!」とオリンピックで言われないように今、東京の川をきれいにするプロジェクトがあるそうです。そのプロジェクトにぜひ頑張っていただきたい!ありがとう。確かに東京の夏はとてもくさーいですからね。

裏から見るとこんな感じ。かっこいいですよね?!

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ちなみにこの橋はもともとは1644年に架けられた橋で、現在の橋は関東大震災後復興事業によってかけられたものです。

 

旧小菅丹治邸

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伊勢丹の創業者の小菅丹治の跡を継いで伊勢丹呉服店から百貨店へと成長させた二代目小菅丹治の隠居所として建てられた屋敷です。立派ですね。千代田区景観街づくり重要物件に指定されています。

 

 

ニコライ堂

〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台4−1−3

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最後はニコライ堂!やっと着きました!1891年に完成したキリスト教の大聖堂です。コンドルが設計しました。今は国の重要文化財です。すごく美しいです。

【東京江戸散歩】有楽町~丸の内~東京駅

今回歩き旅応援舎さんの散歩に参加しましたので忘備録としてブログを更新、とても勉強になりました😌

 

さて、東京駅エリアのぶらり散歩はJR有楽町駅からスタートします。

 

まずはJR有楽町駅を出発前に、有楽町の名前の由来を勉強しましょう。

織田有楽斎が江戸初期有楽町エリアに住んでいたことから有楽町となりました。

織田有楽斎織田信長の弟(!)、茶人・千利休の弟子(!)、関ヶ原の戦いでは徳川についたとたことにより、この辺の領地が与えられたといいます。

 

では早速高架下へいきましょう!

有楽町高架下センター商店会

〒100-0005 東京都千代田区丸の内8 Unnamed Road, 3丁目-8

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ノスタルジックな商店街で、戦後のヤミ商店街として栄えていたんだそう。

戦後直後はこのスペースぎゅうぎゅうにお店が入っていたそうですが今は少し空きスペースが目立ちます。

今風の新しいお店も何件もありますが、戦後直後からずーっと経営しているお店もあるんだとか。

 

〇高架下のお店もよいですが、この鉄道は1914年に完成し、現在もその時作られたレンガ造りが現存しています。

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 歴史を感じますね、かっこいい。。

 

東京国際フォーラム

〒100-0005 東京都千代田区丸の内3丁目5−1

〇江戸時代には土佐藩山之内家と阿波徳島藩上屋敷がありましたが、1894年にドイツ風のレンガ建築の東京府庁が完成。

1945年に空襲によって消失しましたが、その後コンクリート製の都庁が立てられ、最終的に都庁は新宿に移転しました。

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東京府庁がここにあったことで、ガードレール下のお店はさらに栄えていったそうですよ。

 

〇現在の国際フォーラム1階には太田道灌江戸城を作った人)の銅像がたっています。

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ひどい写真! 

 

帝国劇場

〒100-0005 東京都千代田区丸の内3丁目1−1号

渋沢栄一が中心となって1911年に建設された劇場。鉄筋コンクリートにレンガと石を貼り合わせて建てられました。

初代の建物(旧帝国劇場)は1964年に取り壊され、現在の劇場は1966年に完成したものです。なお、現在の帝国劇場の入り口わきに扇面が飾ってあります。

これは、旧帝国劇場の舞台の真上の正面に飾られていたものです。

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これを見るだけで、運気が上がりそうです。これを見た後、帰りの電車でPASMO残金777円になったのでたぶん上がりました、運気。

 

明治生命館

〒100-0005 東京都千代田区丸の内2丁目1−1

〇1934年に完成され、現存しているビル。第二次世界大戦後にGHQの本部を置かれたことでも有名。初めて国の重要文化財に指定されました。

〇定火消の屋敷跡に建ったビルなので、いまでも外の装飾をよく見てみるとイルカの形が使用していたりして、水のモチーフで作られているんだとか。ちなみに安藤広重はここで生まれました。安藤広重は火消の息子さんだったのですね~。

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三菱一号館美術館

〒100-0005 東京都千代田区丸の内2丁目6−2

〇1894年に三菱が建設。1968年に解体され、2010年にコンドルの設計に基づいて復元された。

〇道路側から見る三菱一号館美術館もよいですが、小道を入って中の方に行くと中庭のようになっていて天気が良い日は、ゆっくりくつろぐのにちょうどよいです。

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東京駅

〇1914年に東京駅ができますが、1945年には戦争で屋根がかなり破壊されてしまします。

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1947年に上の部分を撤去(3階部分)し、2階建てとなりました。

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2012年に復原工事が完了し、3階建てに戻りました!

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3階部分は一度壊されて、立て直しているため、2階と3階の間は外から見ても少し色が変わっていることに気がつきます。

 

〇こちらは「帝室専用出入り口」で、皇室の方が新幹線に乗るときなどは、こちらに車を止めるそうです。普段は利用できないようになっています。

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 かっこいいね~。

 

東京駅丸の内南口

〇切符売り場の横にこのような看板があります。

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その下を見てみると、何か一部白くなっています。ここが原敬が暗殺された跡です。

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近くの柱に潜んでいた人が、原敬を切ったそうです。うぅ

 

〇上を見ると8角形になっていますね。八角形のブルーの部分を見ると、それぞれ干支が書いているそうなのですが、4つの干支が足りません。残りの4つは、辰野金吾が設計した佐賀県の武雄温泉楼門に隠れているそうです。

辰野金吾さん、佐賀県出身なので、そのような遊び心を入れることで、佐賀県に人を誘致しようとしたのでしょうか。素敵です。

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何度見ても美しい。武雄温泉にも行ってみたくなりました。 

 

東京ステーションホテル

東京駅丸の内南口から、東京ステーションホテルの地下に階段で行けますので、ステーションホテルに入ってみましょう。

〇ステーションホテル地下1階の廊下を歩いていると、松杭のアートが様々なところに置いてあります。このアートは、東京駅創建から約100年、丸の内駅舎を支えていた約11000本の基礎杭を再利用したものです。

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〇2階に上がると、東京駅内部を上から見下ろすことができます。そしてぐるりと一周していると、あの有名な虎やがこんなところに!すごく雰囲気の良いカフェとなっていました。次回時間のある時にゆっくり行ってみたいです。

 

井上勝像

では少し外にでて皇居側に歩いてみましょう。その前に、井上君にさよならを言います。

〇駅前広場の北口には「日本鉄道の父」と呼ばれる井上勝の像が建てられています。幕末にイギリスに密航留学した長州藩士の1人で、帰国後は工部省の鉄道頭として働きました。

いとおしそうに、東京駅の方を向いて立っています。

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丸ビル

〒100-6390 東京都千代田区丸の内2丁目4−1

丸ビルにつきました!大阪の丸ビルは本当に丸いですが、東京の丸ビルは丸の内の丸ですので丸くありません。

〇オフィス需要の増加に伴い、1923年に完成しましたが、完成の8か月後関東大震災で大きな被害を受けました。1999年に取り壊し、3年後現在の丸ビルが完成しました。初代のビルの土台として地中に埋められていた松杭が1階に展示されています。でかー!

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〇丸ビルの横にはリーフデ号像があります。

オランダ人ヤンヨーステンと、ウィリアムアダムスが乗っていた船です。日本に到着後徳川家康に気に入られて、このリーフデ号像があるエリアをヤンヨーステンはもらったそうです。

ヤンヨーステン=八重洲らしく、このエリアが本来は八重洲だったのがいつのまに東京駅の反対側が八重洲となっています。

徳川家康が亡くなった後は、外国人に対してのあたりがかなり強くなりはじめ、ヤンヨーステンさんも、祖国に帰りたい・・・と一生懸命インドネシアまで行き懇願したそうですが、かなわずお亡くなりになったそう。

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和田倉噴水公園

〒100-0002 東京都千代田区皇居外苑3−1

こちらに来たら少し休憩としましょう。

〇この噴水は平成天皇がご結婚をしたときに、噴水が設置され、さらに令和天皇がご結婚の時にもさらに噴水が設置されたそうです。なので公園は噴水だらけです。

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ここには自動販売機やトイレもありますが、あまりゆっくりまったり休むようなスペースではなく、10-15分少し座って、また歩き始めるための場所、というようなイメージです。長居している人は誰もいませんでした。

 

平将門首塚

ここは有名ですね。

関東(栃木のエリア)出身の将門を殺した侍が、京都まで首を持って京都で晒していた。将門の首は「関東に帰らせろー!」と怒って首が京都からポーンと飛びましたが、途中で力尽きて今の首塚のところに着地したそう。

以来、何度このエリアから首塚を移動しようとしても、工事関係者やその移動に携わった人が次々と亡くなったため、首塚は絶対に移動せずの状態だそうです。

オフィスビルの間にひっそりと佇んでいますが、お参りに来る人は後を絶ちません。

首塚の周りにはカエルの像が沢山ありますが、これは将門が帰りたい!といってここに到着したことから、カエルが🐸いるそうです。

オフィス街に囲まれた首塚にサラリーマンたちは

  • 左遷されたけど戻ってこれますように(カエル)
  • クビを切られませんように(首塚だけに)

と、お願いするんだとか。

 

ちなみに神田明神はこのエリアにありましたが、(もともと神田山を崩して日比谷入江を埋め立てたのが丸の内エリアなので、神田明神という名前がついたみたい。)現在の場所に移動されました。神田明神が将門を神様としているのもそういう理由があるのですね。

 

箱根駅伝ゴール地点

〒100-0004 東京都千代田区大手町1丁目7−1

少し歩くと、箱根駅伝スタート地点につきます。この絆の像の横には歴代の優勝大学が第一回目から全部載っています。あなたの出身校もきっと見つかる!それの写真を撮るのは忘れました。

読売新聞社の南側の道がゴール地点です。

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〇スタート地点はこの読売新聞東京本社の裏側にあります。

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神田橋門跡

〒100-0004 東京都千代田区大手町1丁目9

もう少し歩いたら外堀にかかっていた神田橋が見えてきます。この神田橋を渡って江戸時代の将軍は寛永寺にお参りに行っていたそうです。

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鎌倉橋

〒100-0004 東京都千代田区大手町1丁目9

江戸時代には存在しませんでしたが、関東大震災後復興事業でかけられたものです。

火事や地震などの震災があると、橋がなかったことで逃げられなかったという経験からいつも橋がどんどん追加でかけられていますね。

江戸初期は外敵から身を守るという意識から橋はほとんどありませんでしたが、何度も震災を経験し、後期になるとどんどん増えていきました。

 

竜閑さくら橋

〒103-0021 東京都中央区日本橋本石町4丁目1

2019年架橋の新しい橋。橋の上から外堀アーチやJRの線路を見ることができます。

JRは新幹線も在来線もどんどん走ってくるので、お父さんがビニールシートを引いて、子供と一緒にお菓子を食べながらずーっと電車を眺めていました。優しいパパ・・寒いのに・・

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トータル3時間、13000歩。

忘備録でした。