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【東京江戸散歩】水天宮前~人形町~浅草橋~秋葉原~新御茶ノ水

今日も歩き旅応援舎の散歩で東京ぶらぶらしてきました!!今回のエリアは東京大空襲で被害が少なかったエリアで、古い建物が多く、なんだかタイムスリップした気持ちになってしまいました。

今回のコースは水天宮前~(すべて徒歩の3時間コース)人形町~浅草橋~秋葉原~新御茶ノ水です!

では見てみましょう。

 

水天宮

〒103-0014 東京都中央区日本橋蛎殻町2丁目4−1

東京メトロ半蔵門線5番出口を出てすぐです。

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ここはもともと芝の久留米藩有馬家の屋敷内にあった神社が有馬家の移転に伴って1872年に現在の場所に移転してきたそうです。

天御中主大神(古事記にでてくるイザナギイザナミよりもずっと前の神様で一番最初の神様)を祭神としています。初めて現れた神様ということで、安産のご利益で知られているそう。

ここの神職久留米藩有馬家の末裔だそうで、現在の神職のおじいさんが中央競馬会の理事長も務めており、のちの「有馬記念」に名を残すことになってのだとか。

安産の神様でもありながら、有馬記念の神様でもありそうですね~!

 

松島神社

〒103-0013 東京都中央区日本橋人形町2丁目15−2

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まだ付近が海だったころ、ここには松島があり、この松島に祀られていた稲荷神社が起源です。現在では14柱(神様は「人」ではなく「柱」でカウントするんですよ~)もの神様を祀っています。

古地図を見てみるとわかりますが、松島町(松島があった部分)は町人が住んでいて、周りの海を埋め立てたところは武家屋敷でした。

 

人形町

〒103-0013 東京都中央区

人形町の名前の由来はいろいろあります。

①江戸時代にこのエリアに芝居小屋街があったころ、浄瑠璃人形を作る職人が住んでいた。

②お土産として役者の人形を売っていた。

など。

また、このエリアは第二次世界大戦中の被害が少なく、関東大震災後の復興期に建てられた建物が今も残っているのわかります。

昔は人形屋さんがたくさんあったそうですが、今でも結構たくさんあるな!という印象を受けました。写真でも見えるかしら?人形屋さんがまだまだ残ってます。

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甘酒横丁

〒103-0013 東京都中央区日本橋人形町2丁目4

人形町通りとの交差点の角に尾張屋という甘酒屋があったことが名前の由来です。その名にちなんで甘酒を売る店も多いようです。人形焼きやたい焼き屋さんなどほっこるするようなお店が並びますが、今回は通りすぎただけなので、写真なし!(悲)

ここで休憩したかった!!

 

明治座

〒103-0007 東京都中央区日本橋浜町2丁目31−1

明治初期に両国広小路に立ち上がった、芝居小屋が始まりです。久松町に移転した後、関東大震災焼失を機に現在地に移転したそうです。

○○座というと、歌舞伎を思い浮かべますが、ここでは歌舞伎だけではなく様々な芝居や歌謡ショーなどもやっているそうです。

 

 

賀茂真淵縣居の跡

〒103-0005 東京都中央区日本橋久松町9−11

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賀茂真淵(1697-1769)は江戸中期の国学者です。江戸で田安徳川家に仕えていましたが、隠居後はこの縣居の跡のエリアに住んでいた坪井家の屋敷を間借りし住んでいたそうです。

この間借りして住んでいた場所はこの説明版が設置されているとこよりも100メートル近く離れているところです。

明治初期に国学原理主義のように国学が利用されてしまいましたが、江戸から国学は大切な学問として学ばれていましたね。

賀茂真淵は、古事記伝などを書いた本居宣長の先生。そして平田篤胤は自称本居宣長の教え子。平田篤胤あたりから、国学を使って尊王攘夷を唱える運動が始まってきました。

この賀茂真淵跡は特に何かが残っているわけではなく、この看板があるだけです。

 

矢ノ倉の碑

〒103-0004 東京都中央区日本橋1丁目10

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江戸時代前期に幕府の米倉があり、このエリアは矢ノ倉と呼ばれていました。米倉は1698年に火事で築地に移転しましたが昭和まで矢ノ倉町とこのエリアは呼ばれ続けていました。昭和から矢ノ倉町の名前はなくなったので、それを惜しんでこの碑が建てられたそうです。よっぽどこの地名に愛着があったのですね...

ちなみにこちらも、特に何かが残っているわけではなく、この石碑があるだけです。

 

薬研堀不動院

〒103-0004 東京都中央区日本橋2丁目6−8

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兵火に遭って、根来から逃げてきた不動尊像を祀ったのが始まりと伝わっています。1842年に隅田川の対岸に移転し、明治維新後に順天堂大学の創設者である医師の屋敷跡に移転したのが現在の場所です。

不動院の横には順天堂大学石碑も建っています。

ここのエリアはお医者さんがまとまって住んでいたそうです。江戸時代に体を温めるために医者は唐辛子を使っており、ここのエリアが七味唐辛子発祥の地でもあるそうです。すぐ近くに素敵な唐辛子のお店がありました。大木唐からし店というお店です。

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両国橋

〒103-0004 東京都中央区日本橋2丁目

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江戸で一番大きな火事であった、明暦の大火(1657年)の教訓から災害時に隅田川を渡れるようにするためかけられた橋です。この橋に架けられている〇は、地球儀だという人や花火だという人など諸説あるそうですが、花火の方がロマンチックなので花火を表していることを信じたいです。

 

柳橋

〒111-0052 東京都台東区

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今日1番テンションがあがった柳橋!船着き場が風情があってすごく素敵でした。

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この佃煮屋さんのマスターも爽やかで心地いい!今度佃煮を買いに行きます。

この橋はもともと1698年に神田川と墨田川の合流点に架けられた橋だそうです。現在の橋は関東大震災の復興事業として1929年に架けられたものが残っています。

橋の北側は江戸中期から花街でしたが、平成11年に花街としての歴史を終えたそうです。

当時のお金持ちは、ここで芸者と遊びながら食事をした後、吉原に船で行き、遊女と遊んで家に帰ってくるという遊びをしていたんだとか・・・いやね!

そして聞いてみると、柳橋の花街は江戸時代とても人気の花街だったそうで、お客さんが遊び方を知らないと、お客さんは「帰ってください」と言われたそうです。怖い!

なので、通が通う花街ということで有名でした。

江戸後期から明治にかけて、薩摩長州、土佐、肥前の田舎の元武士が権力を握り始めると、田舎の元武士たちは東京での芸者との遊び方がわからないため、柳橋エリアの芸者には好かれなかったそう。

そこで代わりに栄えたのが、新橋の芸者です。田舎の武士あがりの権力者と、田舎から出てきた芸者が新橋や銀座のエリアで遊んだそうです。(新橋は明治初期一番最初に鉄道ができた街なので、新橋エリアの芸者は柳橋の芸者に比べて、田舎から出てきた芸者が多かったそうです。)

今でも新橋の芸者は東京で一番多いようで、COREDO室町などにも出張で来ているようです。素敵!伝統継承のためでしょうか、ありがたいですね。ぜひいつか行ってみたいと思います。

 

篠塚稲荷神社

〒111-0052 東京都台東区柳橋1丁目5−1

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花街の鎮守だった神社です。玉垣に料亭などの三業(芸者・食事・場所貸し)の名前が刻まれています。また、この近所に住んでいた花柳竜太郎や横綱朝汐太郎の名前もありました。

 

石塚稲荷神社

〒111-0052 東京都台東区柳橋1丁目1−15

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篠塚稲荷神社と並んで、花街の鎮守だった神社です。ここの玉垣にも三業の名前や、芸者さんの名前が刻まれていました。

 

最後の料亭跡

〒111-0052 東京都台東区柳橋1丁目28−4

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がーん!跡形もない...

平成11年に最後まで営業していた料亭いな垣が閉店し、柳橋の花街は終焉を迎えました。今はこのエリアには芸者はいません。このいな垣の跡地はビルになっています。残念!料亭残しておいてほしかった!

 

須賀神社

〒111-0053 東京都台東区浅草橋2丁目29−16

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 推古天皇(601年)の創建とも伝えられていますが、平安時代中期の創建とする説もあります。当初は天王社と称していましたが、明治初期の神仏分離の折にスサノオノミコトが神様となり、名前も須賀神社となりました。

須賀神社の名前の由来は、スサノオノミコトが、ヤマタノオロチ退治後、いけにえになっていた女性と結婚、新しい地に行った際に「すがすがしいなあ」と言ったことから、須賀神社と名付けられ、スサノオノミコト祀られているそうです。

日本人はいつも駄洒落を歴史にしてしまって面白いですね。

 

東京都下水道局泉町ポンプ所

〒101-0024 東京都千代田区神田和泉町1−3−12

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やはり古いレンガ造りにあこがれる!!

レンガに気を取られすぎて全体のポンプ所を撮るのを忘れました。

これは1922年に建設されたポンプ所です。関東大震災でも倒壊せず、ここに流れ込んでいた下水を利用して消火活動も行われました。建設当時の可能性があるレンガが一部残っています。※ただし、建設当初のものかまだ分からないため「調査中です」の貼り紙が貼ってあります。

 

秋葉原

やっと秋葉原に来ました!秋葉原の名前の由来ですが、1869年の大火の跡に設けられた火除地に鎮火神社が建てられましたが、これを人々が「秋葉神社」と勘違いし、このエリアを「秋葉っ原」と呼んだことが由来とされています。

勘違いしていなかったら、このエリアは秋葉原じゃなくて鎮火原(ちんかばら)だったかもしれないのですか・・。

秋葉原駅建設によって、神社は台東区松ケ谷に移転し、結局みんなが秋葉神社というものですから、鎮火神社から秋葉神社に名前を変えてしまったそうです。本物が折れた・・。

 

講武稲荷神社

〒101-0021 東京都千代田区外神田1丁目9

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幕末に水道橋駅の南側に設立された講武所の資金を調達するために、幕府によって払い下げが行われた土地が、現在この神社がある、講武所屋敷でした。土地を落札した大貫伝兵衛が、落札させてくれてありがとう、という思いで建立されたのがこの神社です。

一時期周囲は花街となり、その芸者衆は講武所芸者と呼ばれていたそうです。なんだか強そうですね。

 

昌平橋

〒101-0021 東京都千代田区

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ちょっと、あまりにも素敵な橋だったので、載せさせて!

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この奥のレンガの中のお店が素敵じゃないですか?!テラス席がある!夏はおそらく神田川が臭いのでテラスは嫌ですが、夏以外は素敵!そして、「東京は臭かった!」とオリンピックで言われないように今、東京の川をきれいにするプロジェクトがあるそうです。そのプロジェクトにぜひ頑張っていただきたい!ありがとう。確かに東京の夏はとてもくさーいですからね。

裏から見るとこんな感じ。かっこいいですよね?!

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ちなみにこの橋はもともとは1644年に架けられた橋で、現在の橋は関東大震災後復興事業によってかけられたものです。

 

旧小菅丹治邸

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伊勢丹の創業者の小菅丹治の跡を継いで伊勢丹呉服店から百貨店へと成長させた二代目小菅丹治の隠居所として建てられた屋敷です。立派ですね。千代田区景観街づくり重要物件に指定されています。

 

 

ニコライ堂

〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台4−1−3

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最後はニコライ堂!やっと着きました!1891年に完成したキリスト教の大聖堂です。コンドルが設計しました。今は国の重要文化財です。すごく美しいです。